世の中は、着々と変化しているように感じる。
特に昨今は政治に多くの関心が集まっている。
世の中のあり方に疑問を持つ人が増えている。
僕はと言えば、そういったものに強い関心を持てず、むしろ距離をとっていたくらいだ。
良い風にいえば、自分のやるべきことしかやろうとしていない。
だが、30代になってそれではいけないと思い、最近は、新聞を読み始めた。
(購入はせず、地域の図書館で)
その結果、自分の未熟さを思い知ることになった。
いままで、世間に対して関心を持ってこなかった分、受容体(のようなもの)が育っておらず、同じ、文面を何度も繰り返し読んで、まるで牛みたいに吐き出しては飲み込む、非効率なインプットとアウトプットを繰り返すことになっている。
10の情報を得ても、実際、知見として得られるのは、1とか2とかそんなところである。
例えば、これが、文章を書く専門技術であったり、大好きな野球だったなら、いままで育てた受容体みたいなものが、たちどころに情報を分解し、効率的に知識や技能などに変換できるわけだが、今の僕は、世間というモノに対して、あまりに素人な為、どこが重要で、どこが捨てるべきかもわからず、トランプがどうで、自民党がどうで、日経平均株価がどうでなんて、ほぼよくわからないまま、とりあえず、口に入れてみる状態だ。
でも、それがうれしかったりする。
経験上、駆け出しはじめの努力のほとんどは意味を成さないものだ。
例えるなら、川に石を投じ続け、橋をかけるような作業だ。
最初は向こう岸に渡るイメージが沸かず、闇雲に石を投じ続ける日々であり、意義を感じられず、不安に苛まれる。
多くの場合、ここでリタイアする。
しかし継続していると
意味はわからないけど、続ける。
というフェーズに入る場合がある。
(習慣化ってやつだ)
すると、効率的に石を投げる方法を覚えたりする。しんどいときは軽い石を、、調子が良いときはデカい岩みたいなやつを、と言った具合に。
もちろん、このときも橋なんてできるイメージは毛ほども湧かない。
それでも、続けたら、だんだんと、川の流れが変わっていることに気付き、ここでようやく自分のやっていることに意義を感じ始める。
やがて水面に頭を出す石の存在がわかってくると、ゴールが見え始め、いよいよ石を投下する速度も増し、やがて橋ができる。
重要なのは、この後である。
一度、向こう岸に橋を架けたら、次はより効率的に橋を架けることができる。例えば、闇雲に遠くに石を投げるのではなく、足下を作ることから始める、、、とか、流れに持って行かれない大きな石で最初に土台を作る、、、だとか。
話が長くなったが、勉強も修練も最初のウチは、ほぼ意味がないことの繰り返しになると思っている。
知識や情報を役立てることが出来るのは、多分、相当後になる。
でも、いまは、その泥臭い感じがなんというか、心地良い。
効率良く目的を達成出来たことなんてない。
多分、政治や世の動向について目端が効くようになるのは、かなり後だと思う。
それでも、僕はささやかではあるけど、「橋を架けた」経験があるから、焦ることなはい。
今日も闇雲に石を投じつづける。
手に取った情報を、自分なりに咀嚼しては結論に至らせる。
そのあと専門家が出した答えと照合し、乖離を把握する。
それを繰り返し、自身のセンスを徐々にその道のプロに寄せていく。